2010年7月9日金曜日

日本画について。by山本

今回は日本画のことに少し触れます。


東京画廊は1957年11月に加山又造展(村越画廊と共催)、1960に麻田鷹司展、そして1963年2月に横山操展を企画しました。暫く経って、1983年7月に中野弘彦展(ギャラリー上田と共催)を企画しています。日本画の展覧会はこの4つの企画のみですが、前の三人が発表した作品は新たな日本画の試みとして、画期的なものでした。横山操展に宮川寅雄先生が書かれた序文は、日本の絵画の問題を指摘する、今読んでも新鮮に感じられる内容です。


「戦前の日本画の内部からの戦いも、御舟や華丘あたりを最後として終息してしまった。無数の私小説的画家は先人達が課題とした息苦しいテーマを忘却し、日本画を退廃に埋めてきた。」


近代の日本の絵画は洋画と日本画の二つで成り立っています。東京画廊も時流のなかで、両方の画家の個展を企画してきました。


ところで「日本画」という呼称は、いつ頃から使われるようになったのでしょうか。西洋から学んだ「油画」と対になる言葉であることから、おそらく近代以降のことだと思います。現代では日本画は岩彩と墨、洋画は油彩とアクリル、というように、用いられる画材だけで区別されているように思われます。画題については、加山、麻田、横山の三人の画家を始めとする、伝統に縛られない新しい時代にふさわしい個性豊かなものです。


アートフェア東京2010年の各ブースを回りましたが、もはや洋画・日本画の区別はあまり意味を成していません。すべてが現代美術という括りの中で一体化しつつあります。それでは近代の日本の象徴となる画家と作品(画題)は何か。改めて考えると、日本画の横山大観の富士のシリーズだと思い到りました。


大観がもっとも充実した作品を制作していた時期は、日本が画帝国主義の道を押し進めてアジアへ進出していく時代です。富士は日本国を象徴するものでした。富士の絵は第二次大戦敗北後も暫く描かれ、日本画家だけでなく洋画家にとっても大切な主題となります。富士の絵がマーケットをリードしてきたことは否定できません。


そして日本人の国家意識が薄れるとともに、次第に画家たちも富士を画題に選ばなくなります。事実、平山郁夫、東山魁夷、杉山寧の三人の大御所も富士を描いていません。富士を堂々と描いていたのは片岡球子だけです。デフォルメされた女史の富士は、浮世絵的で国家を感じさせないユニークな作品です。現代では歴史の上積みを取りあげる画家は多いのですが、日本の絵画の問題に深く立ち入らないケースがほとんどです。日本画と洋画の区別が成立しなくなった大きな理由がここにあるのではないでしょうか。しかし、世界に開かれてしまったアートマーケットの中で生き残るためには、作品制作の背景となる歴史性を無視することはできません。


まさに今後の日本の絵画の課題ここにあり。1963年に宮川寅雄先生の序文は47年前にこの点を指摘しています。ちなみに宮川氏は私の弟、田畑の恩師です。

2010年5月27日木曜日

洋画のことに少し触れます。

ヨーロッパ以外では、日本は世界のなかで近代の国づくりを早く達成しました。そのために美術も独自のスタイルを作ることができました。ところが、同じことをしていた別の国があったのです。

2008年1月にロシアのある都市の都市計画のことで初めてロシアを訪れました。同行していただいたロディオン氏(当時、武蔵野美術大学に留学中の博士生)に、モスクワとサントペテルスブルグの美術館を案内された際に、あることに気付きました。
なんと、ロシアの近代美術が日本の近代美術とパラレルに発展していたことです。

キュビズムの影響を受けた萬鐡五郎に匹敵するアーティストがロシアにいました。安井のようなアーティストもいました。冷静に考えると当然で、19世紀の終わりから20世紀の前半にどちらの国のアーティストもパリで学んだり、学んだ人の影響を受けているからです。文学としての交流は盛んでしたが、美術の交流はあまりなく、ロシア美術はエルミタージュやピーキシンなどの美術館の紹介展で、日本の美術とまったく関係なく一般化したので、わたしたちはそのことに気付かなかったのではないでしょうか。

近代という視点から美術を観ると、中国や韓国よりもロシアに日本人は興味を抱くべきだと思います。
しかし、近代美術におけるロシアと日本の差は、ロシアは1920年までに抽象美術までに到達したことです。そして残念なのはロシア革命のなかで、スターリンが政権を握ってからは、抽象の表現は国内ですべて消えてしまったことです。

ロシアと日本の近代美術は表現の趣を異にしています。やはり作品が生まれる風土の影響です。近代は世界に広がりましたが、受け入れる風土によってそれぞれ個性的な表現になることが、このロシアと日本の比較で理解できます。

東京画廊のスタートは戦後以降ですが、近代から現代が始まる狭間に位置していたことになります。欧米は戦後、抽象表現主義という新しい美術を生み出します。そこから現代美術の始まりとなります。

その最中に、父はヨーロッパへ出かけることになりました。

2010年5月6日木曜日

第一回展覧会 鳥海青児展 by山本豊津

東京画廊開廊第一回は鳥海青児の個展でした。この個展という形式が、画廊が絵画や彫刻を販売するうえで、その後一般化します。1951年のことで、このあたりのことは私も弟も覚えていませんが、40年史のカタログに寄稿していただいた、元大原美術館館長・藤田慎一氏の「山本孝への追憶」で、当時の美術シーンの一端が伺えます。


父から聞かされたことで、記憶に残っているものが一つあります。電話のことです。


今でこそ電話はどこにでもありますが、この頃は設置の費用が高く、なかなか線を引くことができませんでした。親しくさせていただいた安井曾太郎先生が「これで電話を引きなさい」と開廊祝いに作品をくれたそうです。
今も使っている東京画廊の電話番号(3571-1808)は、その時からの電話番号です。同居していた村越画廊の村越さんをはじめ、仲間の画商さんたちも使っていたようです。時々売りに出された古い絵の裏に、3571-1808で、別の画廊の名前が記されたシールが張り付けられているのも、このことに由来しているのです。
安井先生にはずいぶんお世話になり、先生の葬儀は東京画廊全員でお手伝いしたようです。父の叔父の小野末も安井先生の弟子で、安井家とは現在もお付き合いさせていただています。


画廊の仕事が社会的に知られるようになったのは、戦後からだと思います。戦後の日本の美術シーンは、安井先生をはじめパリで学んだ画家たちが、洋画と呼ばれる我が国独自の油彩画を創作し、新しい事業家たちが収集することからスタートしました。まだ、美術館ができる前です。新しい日本の近代美術は韓国・台湾にも影響を与え、アジアの洋画が生まれ、アジアの若い才能がパリへ集まります。洋画のマーケットが新しい才能を育む土壌となったのです。東京画廊は新しい日本の洋画家たちの個展を積み重ねてゆきました。



2010年4月21日水曜日

余談ですが..... by 山本豊津


開廊にあたって大きな役割を担った母・喜代子についても触れたいと思います。

母は大正6年生まれで、父より3歳年上です。キャリアウーマンの走りだった母は女学校を卒業後、タイピストとして大蔵省へ入りました。当時は福田元総理や大平元総理も同じフロアで働いていたそうです。その後、運命的なことが起こり、迫水書記官長の命で、鈴木貫太郎終戦内閣で働くことになりました。陛下の玉音放送の原稿を母がタイプしたことなど、終戦に至るまでの内閣の様子は、弟と一緒に幼いころからよく聞かされていました。

戦後、迫水先生の助力で母は銀座の泰明小学校の近くに洋裁店を開業します。父が奉公していた平山堂の近くだったことから、二人は知り合い結婚したと、父の先輩から聞かされました。
母の洋裁店を閉め、その場所に父が数寄屋橋画廊を始めます。母はその後も大蔵省時代の先輩たちと交流があり、東京画廊が株式会社になるときも、大蔵省時代の上司であった黒金先生(池田内閣の官房長官)に株主として参加していただいているのです。

敗戦によってGHQ(占領軍)は日本の財閥を解体しました。日本は製造業を中心に国家の再編に向かいます。当然、経済界の世代交代により、美術のコレクターの代替わりが始まり、その最中、父は画廊を開きましたた。古美術から洋画へ転身した父の決断は、時代の流れを敏感に捉えた的確ものでした。


                       写真:岡本太郎と山本喜代子(左から2番目)

2010年4月15日木曜日

初めに by 山本豊津

東京画廊は2010年で創業60周年を迎えます。

私の父、山本孝が銀座に数寄屋橋画廊を開いたのは、私が生まれた1948年です。私の弟・田畑幸人が生まれた2年後の1950年に、名前を東京画廊へ変え、店を西銀座七丁目の並木通りへ移しました。父の美術商としての出発は、古美術店の平山堂から始まり、母の喜代子と結婚して、28歳の時に画廊を持つことができました。

古書画専門の平山堂を辞め、洋画を扱う画廊をなぜ開いたか、いろいろな話を聞かされましたが、真実は彼岸へです。父が平山堂を辞める日に清水楠男氏(後の南画廊オーナー)と出会い、一緒に画廊を始めることになったらしいです。志水氏は私の弟の名付け親です志水氏は後に父と別れ、南画廊を開きました。シュウゴアーツの佐谷氏の父上、佐谷和彦氏が働いていた画廊です。佐谷氏は後に佐谷画廊を開きました。

また、東京画廊という名は、この道の先輩である長谷川仁氏の経営する画廊だったと日本洋画商史に書かれています。長谷川氏は1932年に日動火災の社長から誘われ、銀座に移ってきました。その時、画廊名が東京画廊で、その後日動画廊に名を変えています。

父は長谷川氏にかわいがられていたので、先輩の画廊名をいただいたのかもしれません。

*写真:山本孝(中央)、志水楠男(最右)