2010年5月27日木曜日

洋画のことに少し触れます。

ヨーロッパ以外では、日本は世界のなかで近代の国づくりを早く達成しました。そのために美術も独自のスタイルを作ることができました。ところが、同じことをしていた別の国があったのです。

2008年1月にロシアのある都市の都市計画のことで初めてロシアを訪れました。同行していただいたロディオン氏(当時、武蔵野美術大学に留学中の博士生)に、モスクワとサントペテルスブルグの美術館を案内された際に、あることに気付きました。
なんと、ロシアの近代美術が日本の近代美術とパラレルに発展していたことです。

キュビズムの影響を受けた萬鐡五郎に匹敵するアーティストがロシアにいました。安井のようなアーティストもいました。冷静に考えると当然で、19世紀の終わりから20世紀の前半にどちらの国のアーティストもパリで学んだり、学んだ人の影響を受けているからです。文学としての交流は盛んでしたが、美術の交流はあまりなく、ロシア美術はエルミタージュやピーキシンなどの美術館の紹介展で、日本の美術とまったく関係なく一般化したので、わたしたちはそのことに気付かなかったのではないでしょうか。

近代という視点から美術を観ると、中国や韓国よりもロシアに日本人は興味を抱くべきだと思います。
しかし、近代美術におけるロシアと日本の差は、ロシアは1920年までに抽象美術までに到達したことです。そして残念なのはロシア革命のなかで、スターリンが政権を握ってからは、抽象の表現は国内ですべて消えてしまったことです。

ロシアと日本の近代美術は表現の趣を異にしています。やはり作品が生まれる風土の影響です。近代は世界に広がりましたが、受け入れる風土によってそれぞれ個性的な表現になることが、このロシアと日本の比較で理解できます。

東京画廊のスタートは戦後以降ですが、近代から現代が始まる狭間に位置していたことになります。欧米は戦後、抽象表現主義という新しい美術を生み出します。そこから現代美術の始まりとなります。

その最中に、父はヨーロッパへ出かけることになりました。

2010年5月6日木曜日

第一回展覧会 鳥海青児展 by山本豊津

東京画廊開廊第一回は鳥海青児の個展でした。この個展という形式が、画廊が絵画や彫刻を販売するうえで、その後一般化します。1951年のことで、このあたりのことは私も弟も覚えていませんが、40年史のカタログに寄稿していただいた、元大原美術館館長・藤田慎一氏の「山本孝への追憶」で、当時の美術シーンの一端が伺えます。


父から聞かされたことで、記憶に残っているものが一つあります。電話のことです。


今でこそ電話はどこにでもありますが、この頃は設置の費用が高く、なかなか線を引くことができませんでした。親しくさせていただいた安井曾太郎先生が「これで電話を引きなさい」と開廊祝いに作品をくれたそうです。
今も使っている東京画廊の電話番号(3571-1808)は、その時からの電話番号です。同居していた村越画廊の村越さんをはじめ、仲間の画商さんたちも使っていたようです。時々売りに出された古い絵の裏に、3571-1808で、別の画廊の名前が記されたシールが張り付けられているのも、このことに由来しているのです。
安井先生にはずいぶんお世話になり、先生の葬儀は東京画廊全員でお手伝いしたようです。父の叔父の小野末も安井先生の弟子で、安井家とは現在もお付き合いさせていただています。


画廊の仕事が社会的に知られるようになったのは、戦後からだと思います。戦後の日本の美術シーンは、安井先生をはじめパリで学んだ画家たちが、洋画と呼ばれる我が国独自の油彩画を創作し、新しい事業家たちが収集することからスタートしました。まだ、美術館ができる前です。新しい日本の近代美術は韓国・台湾にも影響を与え、アジアの洋画が生まれ、アジアの若い才能がパリへ集まります。洋画のマーケットが新しい才能を育む土壌となったのです。東京画廊は新しい日本の洋画家たちの個展を積み重ねてゆきました。