2010年4月21日水曜日

余談ですが..... by 山本豊津


開廊にあたって大きな役割を担った母・喜代子についても触れたいと思います。

母は大正6年生まれで、父より3歳年上です。キャリアウーマンの走りだった母は女学校を卒業後、タイピストとして大蔵省へ入りました。当時は福田元総理や大平元総理も同じフロアで働いていたそうです。その後、運命的なことが起こり、迫水書記官長の命で、鈴木貫太郎終戦内閣で働くことになりました。陛下の玉音放送の原稿を母がタイプしたことなど、終戦に至るまでの内閣の様子は、弟と一緒に幼いころからよく聞かされていました。

戦後、迫水先生の助力で母は銀座の泰明小学校の近くに洋裁店を開業します。父が奉公していた平山堂の近くだったことから、二人は知り合い結婚したと、父の先輩から聞かされました。
母の洋裁店を閉め、その場所に父が数寄屋橋画廊を始めます。母はその後も大蔵省時代の先輩たちと交流があり、東京画廊が株式会社になるときも、大蔵省時代の上司であった黒金先生(池田内閣の官房長官)に株主として参加していただいているのです。

敗戦によってGHQ(占領軍)は日本の財閥を解体しました。日本は製造業を中心に国家の再編に向かいます。当然、経済界の世代交代により、美術のコレクターの代替わりが始まり、その最中、父は画廊を開きましたた。古美術から洋画へ転身した父の決断は、時代の流れを敏感に捉えた的確ものでした。


                       写真:岡本太郎と山本喜代子(左から2番目)

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